素晴らしい日本国内の旅

日本という国は自然、文化ともに素晴らしいところです、 そんな日本国内の各所を巡ります、

平成日本紀行(222)氷見 「雨晴海岸」


 平成日本紀行(222)氷見 「雨晴海岸」  .




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名所、雨晴海岸



氷見は、万葉集の選者・大伴家持(おおとも の やかもち)が愛した景勝地でもある。
越中国守だった家持は氷見周辺で詠んだ歌を30首以上、万葉集に収めている。 
家持は特に、富山湾越しの立山連峰の絶景を好んだようである。 
富山湾上に浮かぶように聳える立山連峰の景観は氷見市のシンボルで、このような陸から海越しに3,000m級の山々を眺めることができる場所は、この地区、氷見海岸一帯から雨晴海岸(高岡市)にかけてしか確認されないという。 
氷見が万葉の時代から歌枕の地であったのも納得できる。

大伴家持越中守に任じられ越中国に赴任したのは奈良・天平10年(738)で、帰京するまでの5年間在任していた。 
家持には通常の国守としての任務のほか、東大寺の官業(政府が直接いとなむ営利事業)などの任があり、家持はその任をよく全うしながら、折に触れて歌を詠んだという。 
家持の生涯で最大の業績は「万葉集」の編纂に加わり、全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残したことにある。 
家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位であり、しかも家持の万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首もあり、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっているといわれる。


『 馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 
清き磯廻(いそま)に 寄する波見に
 』 
(馬を並べてさあ出かけようじゃないか、渋谿(雨晴海岸)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見るために) 万葉集 巻17 3954


『 渋谿の 崎の荒磯に 寄する波  
いやしくしくに 古(いにしへ)思ほゆ
 』          
(渋谿の崎(雨晴海岸)の荒磯に、寄せる波のように、 なおもしきりに、昔が思われる) 万葉集 巻19  3986

氷見から国道415の海岸沿いを行く、高岡市に入り氷見線の海岸に面した駅に「雨晴駅」がある。 
そこが渚100選、家持が詠んだ「雨晴(あまはらし)海岸」であり、白い砂浜と松林の美しい海岸線が続く。 
ここ雨晴海岸からは、海の向こうに雄大立山連峰を望むことができ、海の上に3,000m級の山々を望むことができるのは、世界でも3か所だけだそうで、富山県の観光パンフ写真の定番でもある。
「雨晴」というユニークな地名は、義経岩に伝わる源義経一行の雨宿り伝説によるものという。


『 文治三年(1,187年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、海岸沿いの岩(義経雨はらしの岩)の下に家来ともども、雨宿りをした 』
というものである。 


又、「雨晴」は雨のち晴、雨を晴らすという意味で、不幸から幸福へと幸をもたらす、ということで能登の「恋路」や北海道の「幸福」と並んで人気があったとか・・?。
この雨晴海岸の山の手に二上山、「二上山公園」がある。 
ふたつの峰からなる二上山は、月や紅葉の名所として有名で、ゆるやかに山をめぐる全長約8kmの万葉ラインを中心に、万葉の歌碑や像のほかにいろいろな施設があり、四季の景色や展望が楽しめる。 
この地が、万葉の代表的歌人大伴家持越中の国守として5年間赴任していたが、この間に二上山に関わる数多くの歌を残している。 
JR高岡駅前に建つ大伴家持像は町のシンボルとなっている。


雨晴駅からは氷見線といい国道といい、海に落っこちそうな路線を辿る。 
この海岸際に小さな岩屋があり、「雨晴」の謂れとなった「義経岩」である。 
小さな鳥居の先の岩段の上に祠があった。

国道を更に雨晴トンネルを抜けると(鉄道は海際を走っている・・?)、その名も「越中国分」の駅がある。
この辺りは伏木地区といって、字に如く昔は越中国府があった地域であり、この地方の政治・文化の中心地であったという。 
小矢部川富山湾へそそぐ河口に位置する二上山東麓の河岸台地、伏木町国府の地一帯が越中国庁の跡といわれる。 
その国庁跡に建っているのが勝興寺である。 


現在の境内は約三万三千㎡、中世風の豪壮な伽藍を持つ二十四間の本堂、そして、本堂前に建つ唐門(四脚門)とも国の重要文化財である。 かつての越中国府は、現在の勝興寺境内を中心として200m四方(4万平方米)あったと推定されているという。
高岡市の中心はこれより5kmくらい内陸に入った小矢部川庄川扇状地に広がる。


次回は、「高岡