素晴らしい日本国内の旅

日本という国は自然、文化ともに素晴らしいところです、 そんな日本国内の各所を巡ります、

平成日本紀行(146)鹿児島 「西郷どん」


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




  平成日本紀行(146)鹿児島 「西郷どん」   ,





 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/topsyasin.jpg






写真:鹿児島市内を見守る「西郷どん」、市民(特に男性)は常にこの姿を見ながら暮らしている。







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西郷隆盛は一度死んでいる・・!?

薩摩・鹿児島へ着いたら、先ずは「西郷隆盛」であろう。

西郷隆盛を喩えて、土佐の勤皇志士・中岡慎太郎は・・、

『 この人学識あり、胆略有り、常に寡言(寡黙)にして思慮勇断に長じ、たまたま一言発すれば、確然、人の肺腑を貫く 』 と言い、

又、同じく坂本竜馬は・・、

『 西郷は馬鹿である。 しかし、その馬鹿の幅がどれ程大きいか判らない、小さく叩けば小さく成り、大きく叩けば大きく成る 』と称している。 

西郷隆盛」の関係本は多々発刊されているが、中でも長編小説は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」は、NHKで1990年に放送された28作目の大河ドラマでもあり、薩摩藩と西郷を中心に、幕末から明治維新までをエネルギッシュに描いる。(全10巻・文春文庫・文藝春秋

又、海音寺潮五郎の「西郷隆盛」(全14巻・朝日新聞社)、そして古くは林房雄の「西郷隆盛」(全11巻・徳間文庫・徳間書店)などが出版されている。 


歴史物の好きな小生はこの内、「翔ぶが如く」と林房雄の「西郷隆盛」を読んでいる。 
林房雄のはかなり若い時分で記憶が定かで無いが、先に記した人間味溢れる西郷と僧・月照の悲運のやり取りが今も記憶に残っている。 



この時、西郷は一度、命を亡くしている・・

江戸期、幕末に吹いた嵐は「安政の大獄」として大老井伊直弼が進めた所謂、尊王攘夷派(天皇の権威の絶対化と封建的排外主義とを結合した政治思想をもつ)に対する弾圧である。 
安政五年(1858)年、滋賀県彦根藩主から幕府の最高執政官である大老(老中の上の位)になった井伊直弼はスパイを方々に放ち、攘夷運動家を徹底的に弾圧する。


西郷の若かりし頃、西郷隆盛は生家の鍛冶屋町の「郷中」のリーダーとして、郷中頭となりその指導力を発揮する。
そして、当時の薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)の熱い寵愛を受け、西郷も斉彬に対して強い忠誠心を持っていた。 

島津斉彬は藩主に就任するや藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設等、科学技術開発の集成館事業などを興す。 
又、内政にも昂じ、福井藩主・松平春嶽宇和島藩主・伊達宗城土佐藩主・山内容堂とも交流をもち、幕末の四賢侯とも称された。

安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼は、地位を利用し強権を発動するが、斉彬は、その政治手法や将軍世継問題で真っ向から対立した。 
斉彬のことを「近世最第一なるべし」と評価したのは越前・福井藩松平慶永(春嶽)であり、勝海舟も「えらい人だったよ・・!!」と語る。

斉彬と同じ時代を生き、辛口評価で知られる勝にさえ名君と言わしめ、物凄い迫力のある藩主と感じていたらしい。

西郷はこんな斉彬の事実上の私設秘書であった。

しかし、斉彬は練兵の最中に発病し、50歳の若さで急死してしまう。
その報(しらせ)が京都の西郷の元に伝えられると西郷は巨体を震わせて泣き、薩摩の帰路に腹を切って殉死(主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること、おいばら)を覚悟するのだった。 
しかし、清水寺成就院の僧、西郷が最も信頼する友人である「月照」によって制止され、説得されて薩摩のために生き抜くことを決心する。 
だが、その深いつながりを持った月照と西郷との間には悲劇的な結果が待っていた。

安政の大獄を発した井伊直弼尊皇攘夷派を徹底的に弾圧し、西郷も追捕されることになり、合せて月照も攘夷勤皇の僧として幕府のお尋ね者になる。 
先に鹿児島に戻っていた西郷は、追手に追われる月照上人を薩摩に迎えるが、しかし、斉彬の死後、次期藩主は久光の時代になっていて薩摩の事情は一変していたこともあり、西郷は月照の扱いに苦慮していた。 
更には藩主久光は西郷を毛嫌いするようになり、月照を匿うことはおろか国境で殺害する手はずとなってしまう。 

幕府に追われ、久光に嫌われた西郷は身の置き場がなくなり、月照暗殺の通達が出るに至っては薩摩藩の態度にすっかり失望し、また、月照の身を守れなかったことに悲観して死を覚悟した。 
そして遂に、月照と二人で錦江湾(鹿児島湾)に身を投げたのである、切腹しなかったのは相手が僧侶だったためであった。

ところが、二人のうち図体の大きい西郷のほうが助かってしまい、藩ではこの事態をどう扱うべきか迷う。
そこで、藩は「西郷は月照と自殺した」ということにし、幕府に報告したのである。 
本人には菊地源吾と名を変えさせ、奄美大島に隠遁させてもしものために罪人の死体を西郷の身代わりとして埋めていたという。 
西郷隆盛」の苦難の時代であった。


その後の西郷は、既に周知のことであろうが・・、
大久保利通小松帯刀(こまつたてわき)らと西南の僻地より明治の革命を成し遂げるのである。 

特に薩摩藩の代表になってから、坂本竜馬の仲立ちで、対立していた長州藩木戸孝允薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になる。

薩長の新政府軍は、武力によって旧幕府軍を破ろうとしていたが、江戸城を攻める時には、新政府の代表として幕府側の勝海舟と話し合い、江戸の町を戦火から守った。 

その後、明治新政府の指導者の一人となってからは、廃藩置県、陸軍の整備などに尽力、改革を進めたが、朝鮮出兵を巡っての「征韓論」で、大久保利通らと意見が対立して政府を去ることになる。


次回は、「西郷の最後・城山

  
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