素晴らしい日本国内の旅

日本という国は自然、文化ともに素晴らしいところです、 そんな日本国内の各所を巡ります、

新・日本紀行(100)山口県・岩国の錦帯橋の歴史




新・日本紀行(100)山口県・岩国の錦帯橋の歴史   、  





新装成った名橋・「錦帯橋




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/20100724_Iwakuni_5235.jpg/300px-20100724_Iwakuni_5235.jpg




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/The_Under_Side_of_Kintai_Bridge.jpg





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有名な「錦帯橋」は近年の平成年間、橋体部分の架け替え工事で新調された・・、

窓の下、ガラス戸越に、ひっきりなしに車の騒音、特に大型トラックの騒音は地響きを発して部屋を揺らしながら通り過ぎる、まんじりとも出来ない。 
世界遺産厳島神社の玄関口の宮島口、桟橋からほんの僅か、「宮島Y・H」(ユースホステル)の宿舎である、天下の国道2号線が真下を通っていた。

昨夜は「養老の滝」で一杯やりながら食事をしたが、些か飲み過ぎたせいと旅の疲れも手伝ってか、宿に戻ってからは直に就寝してしまった。 
騒音で気がついたのは午前2時を回っていた頃で、それ以来騒音に悩まされた。おまけに、蚊のブーンという羽音が時折顔をかすめて、マンジリとも出来ずに眼が覚めてしまったようだ。 午前5時であった、車の騒音は益々激しくなり、遂に、我慢がならず起き上がって、目覚まし代わりに近くへ散歩に出かけた。


昨日、世話になった宮島口の桟橋へ出かけてみた。
宮島への一番船は6時頃であるから未だ閑散としている。 
昨日は慌しくて気が付かなかったが、すぐ隣に広島電鉄宮島線の「宮島駅」が在った。
その奥、海岸沿いには大きめの駐車場も在り、岸壁では早釣り人が糸を垂れている。

少しスッキリしたところで宿へ戻り、身支度をし裏口よりソッと出達した、むろん宿賃は昨日の内、清算済みである。 
やはり国道2号線は、阪神地方、広島方面へのトラックが多く目立つ。
これから向かう逆方向の下関方面はさほどでもなく助かる。大竹市内の街道へ来たとき「吉野屋」が目に付いたので、早速、朝食にあり付いた。小生お馴染みで好物の「朝定」である。
ご飯に味噌汁、納豆、卵、海苔、漬物に薬味と合わせて370円は有り難く、大満足で吉野家様々であった。


大竹の市街を抜け小瀬川を渡ると、ここは既に本州最西端の長州・山口県である。
本州の果てだというのに江戸幕府を転覆させ、近代明治以降、初代の伊藤博文以来7人の総理大臣を輩出している。
更に遡れば、中世(戦国期)には毛利元就を輩出し、そして、この山口県を形造ったといってもよいだろう。

この毛利家の大元は、小生の住む相模の国「厚木・毛利の庄」から転封・移住していった事は余り知られていない。 
又、小生の故郷、出身県の福島(会津)とは大変な因縁で、いまだに確執が続いているという。
このことは後に記すとして、いずれにしても「山口」とは只ならぬ県であることは事実のようである。



先ず、その歴史と名勝の「岩国」へ向かう。 

岩国の埠頭を左に見ながら国道2号線は市の郊外を行くと間もなく自然豊かな錦川の袂へ出る、川岸を少し戻るとあの「錦帯橋」であった。 
川向こうには、新緑に包まれた急峻な「横山」が居座って、山頂に岩国城(要害山・横山城)の華麗な姿が白く光る。
この要害山・横山をグルッと巻くように錦川の清流が勢いよくキラメキ流れてる。 
この要害山城内の大手門筋と錦川を挟んでの城下町とを結んで掛かる橋が、日本三名橋・三奇橋と言われる「錦帯橋」である。


山頂に遠く鮮明に光る要害山・岩国城は、1601年(慶長6年・江戸開府時)より7年がかりで吉川広家(きっかわひろいえ)が築いたお城である。 
岩国藩主・広家は、毛利元就・「三本の矢」で知られる長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の内の元春の三男で、元就の孫に当る。 

広家は、勇将で知られた父や兄と違って知将であり、秀吉もその手腕を高く評価していた。
秀吉亡き後の関ケ原の戦いの時、広家は豊臣方に勝ち目がないと見て、密かに手をまわし取引をした。
戦わない(西軍には付かない)ことを条件に毛利氏の中国八ヵ国の領土安泰を保証するという約束を家康にしたのである。

結果は、広家は戦わず西軍が勝利を収めたが、毛利氏の当主であった毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ出されていたため家康の怒りをかい、本領安堵を反故(ほご)にし改易を命じた。 
広家はこれを不服とし抗議、直訴し、どうにかこれが認められて領国・岩国三万石の所領が安堵された。 

しかし、毛利家中では裏切り者扱いをされ、その扱いは幕末まで解消されることはなく、岩国藩も藩ではなく、あくまでも吉川家は長州藩主・毛利家の陪臣として扱われた。 
この直訴によって三万石の所領を持ちながら、広家は諸侯として扱われず、これに対して不平不満を一切言わず、父・元春や毛利家のために忠節を尽くす。 

二代広正、三代広嘉のときから本藩復帰を切望し、強く本家の萩藩に「昇格」を願い出たが聞き届けられず、それが実現したのは幕府が倒れた後の明治元年(1868年)であったという。
錦帯橋」は、こんなお家の事情の最中に二代目広正、三代目広嘉によって建造が始まるのである。 


江戸期、長州(周防・長門、毛利氏の藩領)にかけられた主な橋は本藩・萩の橋本大橋、松本橋、そして岩国の錦帯橋だという。 
この三つをくらべると、橋本橋、松本橋の長さがいずれも80メートル前後であるのに対し、錦帯橋は当時200メートルという桁はずれに長い橋であった。

岩国川(錦川)に最初に橋をかけたのは吉川家二代の広正である。
数次、数回にもおよぶ架橋であったが、その都度大水によって流されてしまい、三代の広嘉によって何とかして流れない橋をと自から工夫して遂に成功させたという。

これには甲州山梨県)大月にある「猿橋」(日本三奇橋)と中国の西湖にかかる橋(その名も錦帯橋)を参考にしたと言われ、石組みをした橋脚にゆるやかな五連のアーチを描く名橋・錦帯橋が誕生した。 
全長 200m、幅 5m、橋台の高さは 6.6m 、一本の釘も使われず、巻金とカスガイで組み上げられている。 


二半世紀にわたる吉川家の大名昇格運動の情熱が、そのままこの橋の建造架橋にも注がれ、天下に誇る名橋と同時に、吉川家の名声を世に示したものと言える。美しい五つの弧を描く錦帯橋は「大名への夢の橋」、「 虹の架け橋」だったのかもしれない。


次回、岩国の現在の錦帯橋

  
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