素晴らしい日本国内の旅

日本という国は自然、文化ともに素晴らしいところです、 そんな日本国内の各所を巡ります、

旅について、昔の旅人たち(Ⅲ)


 旅について、昔の旅人たち(Ⅲ)











上から松陰 芭蕉 子規の面々、






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文中でも紹介すし記載しますが、江戸末期、攘夷論者で有名な「吉田松陰」は、自国・長州萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
その時の旅の様子を表したのが見聞記・「東北遊日記」である。
 
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)。
 江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月5日であった。 

学者・松蔭の旅の目的は種々あったろうが、その旅は苦労の連続であったらしい。 
無論、安らぎの一時もあり、特に、十三潟(津軽半島十三湖)の潟縁を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという下りもあり、そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの景観が、知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
 
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。

  

御存じ「松尾芭蕉」は江戸初中期、伊賀の国上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の芭蕉庵を旅立ち、日光 、白河の関、松島、平泉、山形領 立石寺、 新庄、象潟、越後、 出雲崎、市振の関、 山中温泉敦賀、大垣とほぼ本州中央部を歩いている。
 芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩き俳句をたしなむためであるが、私的な道中の他に、公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
 これにはこんなエピソードもある、越後の能生町糸魚川から親不知(おやしらず)の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
 この時の一句に

    「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

  を詠んでいる。 この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿していて、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て“同行”を頼むのである。
 この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、じつに500~600kmの長道中である。 しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
 普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう。 これは余計な推測だが、やはり公的な仕事が有ったればと想像してしまうのである。
 いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。

  松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である。だが、気楽な気持ちの長道中もあったようで、「正岡子規」のことである。
 芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に

   「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて

  と軽く一句ひねっている。
 四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで「はて知らずの記」を残している。 又、紀行文集の一編に「旅の旅の旅」というのもある。

  昔日は、今日のように一般庶民に移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
 日本では、伊勢参り善光寺参拝など、ヨーロッパでは、キリストの聖杯、聖遺物、やその使徒のだれかれの遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

  そもそも、この旅という概念から我々が受け取る印象は、今と昔でだいぶ様子が異なる。
 現代ではインフラの発達により、土地を離れるということに労力を要しなくなった。 飛行機や新幹線など、その他選択肢は数多く存在する。 旅の目的は移動して何をするかということに重点が置かれている。 それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、すなわち苦しいことに違いなかったのかも知れない。
 文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。 その事を示す例として、日本の初期の鉄道敷設の目的は、関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように、多くが社寺参拝のために造られた事が挙げられる。


  さて、前置きが長くなったが、
 小生は、旅には三つの”楽しみ”が有ると思っている。それは実に単純で、計画段階の楽しみ、旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)、そして、帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめてみる楽しみがある。 松蔭の言葉を借りれば、小生の場合も、三番目のアレコレ調べ、確かめて知識を得るのに重点をおくのだが。 実は、その結果がこの本文を表すのに繋がったのであるが。
 いずれにしても、旅行とは、一般に効率的に行うものであろうが、旅は非効率であり、それがまた良いのである。



次回、旅は四国地方から始まります


 

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